教皇メッセージ
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2024年「世界平和の日」教皇メッセージ(2024.1.1)
2023/12/26
人工知能(AI)と平和
新年の初め、主がわたしたち一人ひとりに与えてくださる恵みの時にあたり、神の民、諸国民の皆さん、各国首脳、他宗教指導者、市民社会の代表者、現代に生きるすべての人に、わたしから平和を祈るごあいさつを申し上げます。
1.科学技術の進歩を平和への道に
聖書によれば、神が人にご自分の霊をお与えになったのは、「どのような工芸にも知恵と英知と知識」(出エジプト35・31)をもたせるためでした。知性は、わたしたちをご自分の似姿に造られた(創世記1・26参照)創造主から授かった尊厳の表れであり、それによってわたしたちは、そのかたの愛に、自由意志と理解をもってこたえられるのです。科学と技術は、人間の知性が本質的に備えるこの関係性という性質の特別な表出であり、どちらも知性の創造的な潜在能力による、傑出した産物です。
第二バチカン公会議は『現代世界憲章』においてこの真理を再確認し、「人間は、労働と才能をもって自分の生活の向上を目指し、つねに努力してきた」と明言します1。人間は「技術を用いて」、大地が「全人類家族のよい住みか」2となるよう努力するとき、神の計画にかなう振る舞いをし、創造の完成をもたらし、諸民族の間に平和を広めようという、神のみ旨に協力しているのです。同じように科学技術の進歩は、それが人間社会のよりよい秩序に貢献し、自由と友愛ある交わりの拡大に寄与するかぎり、人間の向上と世界の変革へと結びつくのです。
人間の生活を悩ませ、大きな苦しみを引き起こしてきた無数の不幸からの救済を可能にした、科学技術の驚異的な進展をわたしたちは率直に喜び感謝しています。同時に、テクノサイエンスの進歩は、かつてないほど現実を操作することを可能にし、人類の手に膨大な可能性をもたらしていますが、その中には人類の生存を脅かし、共通の家を危険にさらすものもあります3。
新たな情報技術の目覚ましい進歩はとりわけデジタル領域で著しく、それゆえ、諸民族間の正義と和合の追求にとって重大な意味をもつ、胸躍るチャンス、と同時に深刻なリスクをもたらしています。ですから、いくつかの差し迫った問いに向き合う必要があります。新しいデジタル技術がもたらす中長期的な影響とはいかなるものなのか。それは、個人の生活や社会生活に、国際社会の安定と平和に、どのような影響を与えるのか。
2.期待とリスクのはざまにある人工知能の未来
ここ数十年間の情報技術の進歩とデジタル技術の発展は、すでにグローバル社会とその動向に大きな変革をもたらし始めています。新しいデジタルツールは、コミュニケーション、行政、教育、消費、人的交流、その他日常生活の無数の側面に変化をもたらしています。
さらに、インターネット上に残されたデジタル記録から、さまざまなアルゴリズムを採用するテクノロジーによって、多くの場合利用者が知らないうちに、商業目的や政治的意図によって、人々のメンタリティーや人間関係における習性の操作を可能にするデータが抽出され、自由な選択を自覚的に行うことが制限されています。実際、情報の氾濫を特徴とするウェブのような空間では、利用者が認識するとは限らない選択基準に従って、データの流れが構成されうるのです。
科学研究と技術革新は、現実から切り離されたものでもなければ「中立」4でもなく、文化的な影響を受けるものであることを忘れてはなりません。ひたすら人間による活動である以上、その方向性は各時代の個人的、社会的、文化的価値観によって条件づけられた選択を反映しています。その結果についても同様です。それこそが、取り巻く世界に対する、まさしく人間からのアプローチの成果として必ず倫理的側面を有し、実験を計画して特定の目的へと生産を向かわせる人間の決断に密接に結ばれているのです。
これはまた、各種人工知能にも当てはまります。今のところ科学技術の世界では、その一義的な定義はなされていません。現在では一般化されたこの語自体は、人間の認知能力を機械に再現・模倣させることを目的とした、さまざまな科学、理論、技術を含んでいます。「各種知能」と複数形で語ることで、そうした圧巻的で強力なシステムと人間との間にある、埋めようのない隔たりを強調することができます。それらは、人間の知能の一部の機能を単に模倣・再現するにすぎないという意味で、結局のところ「半端」なものなのです。複数形を用いることは、多種多様なこれらのデバイスは、つねに「社会技術的(ソシオテクニカル)なシステム」として捉えなければならないことを明確にします。実際、基盤となっている技術とは関係なく、それらからどのような影響を受けるのかは、設計によるばかりでなく、その技術の保有者や開発者の目的と関心、そして使用される状況によっても異なります。
したがって人工知能は、さまざまな現実の集合体として理解されるべきもので、その開発が人類の未来や民族間の平和に有益な貢献をなすのは自明であると決めつけることはできません。そうした肯定的な結果が生じうるのは、わたしたちが責任をもって行動し、「包摂性、透明性、安全性、公平性、プライバシー、信頼性」5といった人間の基本的価値観を尊重できる場合のみです。
アルゴリズムやデジタル技術の設計を企図する側の、倫理的かつ責任ある行動の確約を前提とするだけでは十分ではありません。新たな倫理課題の検討や、各種人工知能を使用する人、また人口知能の影響を受ける人の権利保護を管轄する機関を強化し、必要であれば新設することが求められています6。
それゆえ技術の大幅な拡充には、その後の進展に対する責任についての十分な養成が伴われるべきです。人間が利己主義、私利私欲、利益追求、権力欲の誘惑に負けたとき、自由で平和な共存は脅かされます。ですからわたしたちには、広く目を配り、人間と共同体の包括的発展に寄与するため、科学技術研究を平和と共通善の追求に向かわせる義務があるのです7。
各人が本性的に備える尊厳と、わたしたちを唯一の人類家族として結びつける兄弟愛が、新技術の開発の基盤であるべきで、その実用化にあたっての評価の厳然たる基準とならなければなりません。正義を重んじつつデジタル技術が進歩し、平和に貢献するようにです。人類全体の生活の質を向上させず、逆に格差や争いを悪化させるような技術開発は、真の進歩とはいえません8。
人工知能は、ますます重要なものとなるでしょう。そこにある課題は技術的なものばかりでなく、人間学的、教育的、社会的、政治的なものにも及びます。たとえば、手間の削減、効率的な生産、輸送負担軽減、市場の活性化、さらにはデータの収集・整理・分析プロセスにおける革命が約束されています。起きている急速な変化を認識し、基本的人権を守り、かつ人間の全人的発展を促進する制度と法律に沿って、その変化をうまく管理しなければなりません。人工知能は、人間の比類なき潜在能力や、より高い志に仕えるべきで、それらと競合するものであってはなりません。
3.未来の技術――自ら学習する装置
機械学習(ML=machine learning)技術に基づく人工知能は、さまざまな形態を有し、いまだ開拓段階にあるとはいえすでに社会構造に顕著な変化をもたらしており、文化や社会行動、平和構築といったものに多大な影響を及ぼしています。
機械学習やディープラーニングなどの開発は、技術や工学の領域を超えた、人間のいのちの意味、基本的な知の歩み、真理に至るための思考力、これらと強く結ばれた理解力に関する問いを提起しています。
たとえば何らかのデバイスに、構文的にも意味的にもまとまりのある文章を生成する能力があったとしても、それがその信憑性を保証するわけではありません。人工知能は「欺く」ことがある、つまり一見もっともらしくても、実際はでたらめだったり偏向性があったりする主張を生成することがあるといわれています。人工知能が、フェイクニュースを拡散してメディア不信を高めるデマ活動に利用されれば、深刻な問題が引き起こされます。秘密保持、データ所有権、知的財産なども、問題とされるテクノロジーが深刻なリスクを招くまた別の分野であり、それが不適切に用いられると、差別、選挙活動への介入、監視・管理社会の定着、デジタル・デバイド(情報格差)、共同体から分離した個人主義の極端化などにさらなる負の影響を来します。これら要因にはどれも、対立を助長し、平和を阻害する危険があるのです。
4.技術主義的(テクノクラティック)パラダイムの限界を意識する
この世界はあまりにも広大で、多様であり、複雑で、完全に把握することも分類することもできません。人間の頭脳をもってしてでは、たとえ最先端のアルゴリズムの助けを借りたとしても、その豊かさを使い尽くすことはできないでしょう。事実、そうしたアルゴリズムは、確実な未来予想を提供するのではなく、統計的な近似値を提示するにすぎないのです。すべてを予測できるはずはなく、すべてを計算できるわけでもありません。結局のところ「現実は理念に勝る」9のであり、わたしたちの計算能力がどれほど驚異的であろうとも、いかなる測定の試みからもこぼれ落ち、手の届かない部分はつねに残るのです。
さらに、人工知能が分析する膨大なデータは、公平性をそのまま保証するものではありません。アルゴリズムが情報を割り出す際には、それを歪曲させる危険性がつねにあり、情報が生み出された環境にある不正義や偏見を再現してしまうのです。アルゴリズムが高速化、複雑化すればするほど、なぜそうした結果が得られたかを理解するのは難しくなります。
「知能」を搭載した機器は、課された仕事をこなすごとに効率を上げていくでしょうが、その作業の目的や意味は、固有の価値領域を有している人間の側が決定し意義をもたせることに変わりないでしょう。何らかの意思決定の基盤となっている基準が不明瞭になり、意思決定の責任の所在が分からなくなり、製作者が共同体の善益のために行動する義務を逃れようとする危険が存在します。ある意味これは、経済がテクノロジーと結託し、効率という基準を優先させ、目先の利益に結びつかないものはことごとく切り捨てる傾向のある、技術主義的なシステムによって助長されています10。
ここからわたしたちは、今日の技術主義的でコスト重視の考え方では軽視されがちな、しかし個人と社会の発展にとって決定的な意味をもつ「限界の意識」について考えさせられます。実際、死ぬことを免れえない人間が、あらゆる限界をテクノロジーによって突破しようと考えれば、すべてを支配しようという考えに取りつかれ、自己を制御できなくなる危険があります。際限のない自由を求めて、技術主義の独裁の渦に飲み込まれてしまうのです。被造物として、人間には限界があると認識しそれを受け入れることは、充満に至るため、さらにいえば贈り物として充足を受け取るために、欠いてはならない条件です。逆に、技術主義的パラダイムが思考の土台となる中では、自己充足というプロメテウス的思い上がりが勢いづき、格差が悲劇的に拡大し、情報と富は少数者の手の中で増大し、民主主義社会と平和的な共生は深刻な危機に陥りかねません11。
5.喫緊の倫理的課題
将来的には、ローン申請者の信用調査、個々人の職業適性、有罪判決を受けた人の再犯可能性、政治亡命や社会的援助受給の適格性などが、人工知能システムによって決定されるようになるかもしれません。こうしたシステムによる仲立ちは多角性を欠いているため、さまざまな偏見や差別を露呈しがちです。システムエラーはたちまち増殖し、個々の事案に不正義を来すだけでなく、ドミノ効果によって、社会的不平等の現実形態を生み出しうるのです。
さらに、各種人工知能が、促進や抑止につながるあらかじめ定められた選択肢によって、あるいは情報整理に基づいて個人の選択を規制するシステムによって、個人の意思決定に影響力をもつように思えることもあります。こうした各種操作や社会的統制は細心の注意をもって監視する必要があり、製作者、利用者、政府当局にはそれぞれ明確な法的責任が課されます。
監視システムの拡大や、社会信用システムの導入などによる、個人の分類の自動処理を当てにすれば、市民の間に不当な格付けを定め、市民社会に深刻な影響を及ぼすおそれもあります。そしてこうした人為的な格付けの流れは、仮想の対象者だけでなく生身の人間も巻き込んだ権力闘争にもつながりかねません。人間の尊厳を根本から守るには、その人の唯一無二性が一連のデータに置き換えられることを否定しなければなりません。アルゴリズムには、わたしたちが人権をどのように理解するかを決めさせたり、共感、いつくしみ、ゆるしといった欠かすことのできない価値を無視させたり、個々人が変化して過去と決別する可能性を排除したりさせてはなりません。
こうした状況下では、新たなテクノロジーが就労の世界に与える影響を考えないわけにはいきません。かつては人間の労働力が独占的に担っていた仕事が、人工知能の産業への導入によって急速に奪われています。ここにもまた、多数の人の貧困化を代償にして少数の人が過多な利益を手にする、格差のおそれがあります。労働者の尊厳の尊重、個人・家庭・社会の経済的安定のための雇用の重視、雇用の安定、公正な賃金、これらはこうした各種テクノロジーの職場への導入が深く浸透する中にあって、国際社会の最優先事項とすべきです。
6.剣(つるぎ)を鋤(すき)にできるだろうか
昨今、わたしたちを取り巻いている世界に目を向ければ、軍需産業にまつわる深刻な倫理問題は避けて通れません。遠隔操作システムによる軍事作戦が可能になったことで、それらが引き起こす破壊やその使用責任に対する意識が薄れ、戦争という重い悲劇に対し、冷淡で人ごとのような姿勢が生じています。人工知能の軍事利用を含む、いわゆる「自律型致死兵器システム」の分野における新規技術の研究は、重大な倫理的懸念となっています。自律型兵器システムは、道義的責任の主体にはなりえません。人間だけが有する道徳的判断力や倫理的意思決定能力は、複雑に集積されたアルゴリズムが及ぶものではなく、その能力をマシーンのプログラミングに落とし込むことは不可能です。マシーンに「知能」が搭載されているとしてもです。ですから兵器システムに対し、人間による適切で有意の一貫した監視を確保することが不可欠なのです。
高性能の兵器が正しくない人の手に渡り、たとえばテロ攻撃や、正当な政府機関を攪乱する活動を誘発する可能性も無視できません。つまり世界には、戦争の狂気を助長し、武器市場と武器取引の不当な拡大に加担する新規技術など必要ないのです。そんなことになれば、人間の知能ばかりか、心そのものが、いっそう「人工的」になるおそれがあります。最先端技術の応用は、暴力による紛争解決に加担するために用いられるべきではなく、平和への道を舗装するために使われるべきです。
肯定的な面からいえば、人工知能が全人的発展を促進するために用いられるならば、農業、教育、文化において重要な革新をもたらし、国や民族レベルにおいての生活水準を向上させ、人類の兄弟愛と社会的友愛を広げられるはずです。結局のところ、最後に回される人たち、つまりもっとも弱く助けを必要としている兄弟姉妹との共生のためにいかに人工知能を活用するのかが、わたしたちの人間性を明るみに出す尺度となるのです。
世界に対する人道的な視点とよりよい未来への願いから、アルゴリズムにおける倫理、すなわち新技術の進路を規定する価値観となる――アルゴレシックス(algor-ethics)――の確立を目指した学際的対話の必要性が叫ばれています12。倫理的懸案については、研究の初期段階から、また実験、設計、製作、流通、販売の各段階でも考察されなければなりません。これは企図に対しての倫理的なアプローチであり、そこにおいては、教育機関や意思決定の責任者が重要な役割を担うのです。
7.教育の課題
人間の尊厳を尊重し、それに寄与する技術の開発は、教育機関や文化界にとって大きな意味があります。コミュニケーションの可能性を広げることで、デジタル技術は新しい形の出会いをかなえました。ただし、新技術によってわたしたちが引き入れられる関係性とはどういったものであるのか、継続して考察する必要があります。若者は技術が浸透した文化環境で育っていますから、指導や養成のあり方について審議しないわけにはいきません。
各種人工知能の活用に関する教育は、批判的思考の養成に重点を置くべきです。インターネット上で収集された、あるいは人工知能システムが生成した、データやコンテンツを利用する際の識別能力はどの年代においても養われなければなりませんが、とりわけ若者にはそれが求められています。学校、大学、学術団体には、学生と研究者がテクノロジーの開発と活用における社会的・倫理的視点を習得できるよう支援することが求められます。
新しいコミュニケーションツールの利用についての養成は、偽情報やフェイクニュースについてだけでなく、「新しい科学技術を隠れ蓑にして、力をつけていた」「先祖伝来の恐怖」13が不穏にも再燃していることについても顧慮すべきです。残念なことに、わたしたちは再び、平和的で友愛に満ちた共生の発展と「他の文化、他の人々とのこうした接触を防ぐために、壁の文化を作ろうとする……壁を築こうとする誘惑」14と戦わなければならない状況にあるのです。
8.国際法を拡充させるうえでの課題
人工知能の世界規模の普及から明らかになったのは、その活用を主権国家が自国内で規制する責任と並び、多国間協定を確立し、その適用と実施を整備するうえで、国際機関が決定的な役割を果たすはずだということです15。これについてわたしは、多国間共同体が、さまざまな形で人工知能の開発と活用を規制する拘束力のある国際条約を採択するべく、一致して働くよう強く訴えます。当然のことながら法制化は、有害な慣行の予防に加え、好例の推奨、新たな創造的取り組みの活性化、個人や団体による新規参入の促進も目指すべきです16。
結局のところ、デジタルテクノロジーの開発者に倫理指針を示すはずの法規範を探るうえでは、必要な法的枠組みの策定、採択、適用という社会の責務の基礎となるべき、人道的な諸価値の割り出しが欠かせません。各種人工知能を製作するうえでの倫理的指針の起草作業では、人間の存在の意味、基本的人権の保護、正義と平和の追求、これらに関する深遠な問いの熟慮をなおざりにはできません。こうした倫理的・法的観点からの識別の過程は、個人生活や社会生活においてテクノロジーが果たすべき役割や、より公正で人間的な世界の創造にテクノロジーがいかに貢献しうるかを、ともに考える貴重な機会となるはずです。ですから人工知能の規制に関する論議においては、世界規模の意思決定プロセスから締め出されている貧困層や社会から疎外されている人々を含め、あらゆる利害関係者の声を考慮すべきなのです。
…………
各種人工知能の開発の進展が、最終的には、人類の兄弟愛と平和の大義への確実な貢献となるべく、以上の考察が励ましとなるよう願っています。これは一部の人の責任ではなく、人類家族全体の責任です。平和はまさに、侵すことのできない尊厳を有するものとして他者を認め受け入れるというかかわりの果実であり、すべての人とあらゆる民族の包括的発展を求める協働と努力の果実なのです。
新年の初めにあたり祈ります。各種人工知能の急速な発展が、世界にすでにある、あまりに多くの格差と不正義を増大させることなく、戦争や紛争を終わらせ、人類家族に及ぶさまざまな形態の苦しみを減らす助けとなりますように。キリスト信者、さまざまな宗教の信者、そして善意ある人たちが、デジタル革命による機会をとらえ、そこにある課題に取り組み、連帯のある公正で平和な世界を次世代に残すため、調和のうちに協力していくことができますように。
バチカンにて
2023年12月8日
フランシスコ
教皇フランシスコ、2023年降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2023.12.25)
2023/12/25
教皇フランシスコ、2023年降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)
親愛なるローマと全世界の兄弟姉妹の皆さん、クリスマスおめでとうございます!
世界中のキリスト者のまなざしとこころは、ベツレヘムに向いています。ここ最近では、悲しみと沈黙の場となっていますが、長く待たれたメッセージが最初に宣言された地です。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2・11)。このことばは、ベツレヘムの上に現れた天使によって告げられましたが、わたしたちにも告げられているのです。わたしたちのために主がお生まれになったと知ることで、わたしたちは希望と信頼に満ちあふれます。限りない愛の神である、永遠の御父のみことばが、わたしたちの間に住まわれたのです。主は肉となられ、「わたしたちの間に宿られ(る)」(ヨハネ1・14)ために、来られたのです。これは歴史の流れを変えたほどのよい知らせです!
このベツレヘムのメッセージは、事実、「大きな喜び」(ルカ2・10)の知らせです。では、どのような喜びなのでしょうか。この世の過ぎ去っていく幸せや気晴らしの喜びではなく、「素晴らしい」喜びなのです。なぜなら、わたしたちをも素晴らしくしてくれるからです。今日、わたしたち皆は、欠点を抱えながらも、かつてないたまものの確かな約束を受け入れます。つまり、天の国に向けて生まれ変わる希望をいただくのです。もちろん、わたしたちの兄弟であるイエスは、イエスの御父をわたしたちの御父としてくださるために来られました。幼子として、わたしたちに、御父の優しい愛、またそれ以上のことを示してくださいます。父なる神の御ひとり子として、イエスは「神の子となる資格を与え」(ヨハネ1・12)られます。これこそこころを慰め、希望を新たにしてくれ、平和を与えてくれる喜びです。これは聖霊の喜びで、神の愛する娘と息子になるという喜びです。
兄弟姉妹の皆さん、今のベツレヘムは深い闇がその地を覆っていますが、消えることのない火がともされています。その世界の闇は、神の光によって克服されました。神の光は「世に来てすべての人を照らす」(ヨハネ1・9)からです。兄弟姉妹の皆さん、この恵みのたまものに喜びましょう。自信を失って迷っている皆さん、喜びましょう。なぜなら、もうあなたは独りではありません。キリストがあなたのためにお生まれになったのです。すべての希望を失ってしまった皆さん、喜びましょう。なぜなら神はあなたに手を差し伸べてくださるからです。あなたを非難なさることはありません。その小さな手を差し伸べて、あなたを恐れから解放し、重荷を軽くしてくださいますし、そのまなざしで、あなたが他の何よりも大切だと教えてくださいます。こころの平安が得られないという皆さん、喜びましょう。なぜなら、古代のイザヤの預言が、あなたのために、実現されました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。その名は[・・・]『平和の君』と唱えられる」(イザヤ9・5)。そして、その平和と天の国は「絶えることがない」(イザヤ9・6)のです。
福音書には、平和の君は「この世の支配者」(ヨハネ12・31)に敵対されるとあります。「この世の支配者」は、死の種を蒔くことによって、「命を愛される」(知恵の書11・26)主に対する陰謀を企てます。それがベツレヘムで起こり、幼い子どもたちが、救い主のご降誕の後に、殺害されました。現代でも、どれほどの幼い子どもたちが殺されていることでしょう。母の胎の中で。絶望の中、希望を求める旅路の中で。戦争によって荒廃した子ども時代を生き抜いていく中で。この子どもたちは、現代の小さなイエスです。その小さな子どもたちの子ども時代は、戦争によってめちゃくちゃにされています。
平和の君に「はい」と答えることは、戦争、あらゆる戦争を否定することを意味します。勇気をもって否定しましょう。この戦争を好む考え方は、目的のない旅路と同じで、勝利のない敗北、許しがたい愚かなことと同じです。これこそ戦争です。目的のない旅路、勝利のない敗北、許しがたい愚かなことです。戦争を否定することは、兵器を否定することです。人間のこころは弱く、直情的です。死の道具を手にすると、遅かれ早かれ、その道具を使うでしょう。では、兵器の生産、販売、貿易が増える中で、どのように平和を語っていけばよいのでしょうか。現代も、ヘロデの時代同様、神の光に対抗する悪は、偽善と隠ぺいの闇の中で、策略を企てています。誰にも気づかれず、まったく音のない静寂の中で、どれほどの暴力と殺人が起きていることでしょうか。武器ではなくパンを求める人々やどうにか家計をやりくりして、平和だけを望んでいる人々は、どれほどの公的資金が武器に費やされているのかを知りません。しかし、このことは知られるべきです。戦争を陰で操っている利権や利益を表面化させるために、このことは話され、書かれるべきなのです。
「平和の君」を預言したイザヤは、「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」日を、そうして「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2・4)日を見通していました。神の助けを求め、そのような日が来るように、あらゆる努力をしようではありませんか。
人々のいのちが戦争によって破壊されているイスラエルとパレスチナに、そのような日が来ますように。わたしはすべての人々を大切に思っています。特にガザのキリスト者の共同体、ガザの小教区、そして聖地全体を抱きしめたい思いです。10月7日の憎むべき奇襲攻撃の犠牲となった方々のことを思うと、深い悲しみを覚えます。いまだに人質となっている方々を解放するようにという緊急の訴えを繰り返します。罪のない市民を犠牲にするという最悪の結果をもたらす軍事作戦を終わらせるよう懇願します。絶望的な人道的状況を、人道支援物資を届けることによって解決することを求めます。暴力と憎しみの連鎖に終わりが来ますように。強い政治的意思と国際社会に支えられ、当事者間での誠実で忍耐強い対話をとおして、パレスチナの人々が抱える問題が解消されますように。兄弟姉妹の皆さん、パレスチナとイスラエルの平和のために祈りましょう。
同様に、戦火に引き裂かれたシリアの人々と長い間苦しみ続けてきたイエメンの人々のことを思います。また、愛すべきレバノンの人々のことも考えます。政治的、社会的安定が早く実現されるよう、祈っています。
幼子のイエスを思い起こしながら、ウクライナの平和も願っています。この追い詰められた人々に霊的に、また人間的に寄り添う思いを新たにしましょう。わたしたちの支援をとおして、ウクライナの人々が神の愛を目に見える形で感じることができますように。
アルメニアとアゼルバイジャンの間でも、確固とした平和が訪れる日が近づきますように。人道的な取り組みを推し進めることで、難民となった人々が合法的に、かつ安全に家に戻ることで、宗教的伝統とそれぞれの共同体の礼拝の場を、互いに尊重し合い、平和に近づいていきますように。
サヘル地域やアフリカの角と呼ばれる地域、スーダン、カメルーン、コンゴ民主共和国、南スーダンを悩まし続けている緊張と紛争があることも忘れないでいましょう。
対話と恒久的平和をつくり上げることができる和解のプロセスに着手することによって、きょうだい愛に根差した絆が朝鮮半島で強固になる日が来ますように。
身分の低い幼子となられた神の御子が、全アメリカ大陸の政治当局と善意の人々を奮い立たせ、社会的、政治的対立を解決し、人々の尊厳を脅かすあらゆる形の貧困に対処し、不平等を減らし、また人の移住、移動という痛ましい現象に対処できるよう、そのためのふさわしい方法を考え出すことができますように。
飼い葉桶から、幼子イエスはわたしたちに、声を持たない人々の声となるよう求めておられます。パンと水がないために亡くなった罪のない子どもたちの声。仕事を見つけられないでいる人々、または仕事を失ってしまった人々の声。過酷な旅の中でいのちを危険にさらしたり、恥知らずな人身取引を行う者の餌食となる危険を冒したりしながらも、よりよい未来を求めて、故郷を離れざるを得なくなった人々の声。
兄弟姉妹の皆さん、わたしたちには、恵みと希望の時が近づいています。今から1年後に聖年が始まるのです。その聖年に向けた準備の今が、回心、戦争を拒否するこころ、平和を受け入れるこころを育む、よい機会となりますように。そして、イザヤの預言のことばにあるように、喜びに満ちて主の呼びかけに応えられますように。「貧しい人に良い知らせを伝え、打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知」(イザヤ61・1参照)できますように。
これらのことばは、今日ベツレヘムでお生まれになるイエスのうちに実現されました(ルカ4・18参照)。イエスを迎え入れましょう。平和の君である、救い主イエスにこころを開きましょう。
第2回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」教皇メッセージ 2022年7月24日
2022/06/23
「白髪になってもなお実を結び」(詩編92・15)
最愛なる仲間の皆さん
詩編92の一節「白髪になってもなお実を結び」(15節)は、よい知らせ、真の「福音」であり、第2回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」の機に、世に告げ知らせるべきものです。これは、この年代についての世の見方とは逆行するものであるとともに、わたしたち老人の中に見られる、ほとんど希望もなく、もはや未来への期待もなく過ごす人のあきらめの姿勢とも正反対のものです。
多くの人にとって、老齢は恐怖です。どうにか避けたい病気のようなものとして、それは捉えられています。老人は自分には関係ない――そう彼らは考え――、なるべく離れて、できれば皆で介護施設で暮らしてもらい、面倒を見なければならない状態は避けたいと考えています。それが「使い捨て文化」です。こうしたメンタリティは、自分たちはあの弱い人とは違うのだ、あの人たちの脆弱性とは無関係だという気にさせて、「わたしたち」と「あの人たち」にはそれぞれ別の道があると思い込むことを正当化します。しかし、本当のところ、聖書が教えているように、長寿は祝福であり、老人は疎まれる存在ではなく、いのちを豊かに与えてくださる神のいつくしみの生きたしるしです。高齢者を世話する家庭は幸いです。祖父母を敬う家族は幸いです。
確かに、老いというのはなかなか理解しがたく、それはすでに老いを経験しているわたしたちにとっても同じです。長い旅路の後にやってくるとはいえ、だれ一人として覚悟してはこないので、不意打ちを食らったように感じます。先進国では、この年代に対して多くを投じていますが、老齢期についての理解を助けてはくれません。介護事業はあっても、実存に関する事業はありません1。だから、未来について考え、目指すべき地平を捉えることが難しいのです。一方では、老いを払いのけようと皺(しわ)を隠し、いつまでも若いふりをしながらも、他方では、もはや「結べる実」はないとあきらめて、楽しみにすることもなく過ごしていくしかない、そんなふうになっています。
引退し、子どもが独立したことで、これまでエネルギーを注いできたモチベーションを失います。体力の衰えを実感したり、病気になったりすることで、自信が揺らぐこともあります。世の中の流れは速く、わたしたちはそれについていくのが大変ですが、ほかに手段がないように思い、自分たちは用なしなのだという考えを受け入れてしまいます。だから詩編の祈りはこう叫ぶのです。「老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください」(71・9)。
しかし、人生のあらゆる時期における主の存在を振り返るこの詩編は、期待する心をもち続けるようわたしたちを招きます。老いて白髪になっても、主はいのちを吹き込み続け、わたしたちが悪に打ち負かされることがないようにしてくださいます。主を信頼するならば、ますます主を賛美する力を得(14—20節参照)、そうしてわたしたちは、年を取ることは、肉体の自然な衰えやどうにもならない時の経過であるだけでなく、長寿というたまものでもあると気づくでしょう。年を取ることは、呪いではなく祝福です。
そのためにわたしたちは、自分を律し、精力的に年を重ねることを学ばなければなりません。霊的な観点からもそうで、神のことばを熱心に読み、日々祈り、秘跡にあずかり、典礼に参加することで、内面を豊かにして年を重ねるのです。また、神とのかかわりとともに、他者とのかかわりも豊かにしていかなければなりません。まずは、わたしたちが心から愛情を注ぐ家族、子ども、孫とのかかわりがありますが、それだけでなく、貧しい人や苦しんでいる人、具体的な援助と祈りをもって接しなければならない人とのかかわりです。これらによってわたしたちは、この世という劇場で単なる観客だという思いに陥らず、「バルコニーから眺める」、窓からのぞくだけにはならないのです。そうはならずに、主の存在に気がつけるよう感覚を研ぎ澄ますことで2 、わたしたちは「神の家にある生い茂るオリーブの木」(詩編52・10参照)のように、そばで生きる人たちにとっての祝福となるのです。
老齢期は、舟に櫓(ろ)を置き隠退の身となる無益な年月ではなく、なお実を結び続ける年代です。わたしたちを待つ新たな使命があり、未来に目を向けるよう招いています。「人間を人間らしくする、気配り、思慮深さ、愛情、これらについてわたしたち老人、高齢者がもつ特別な感受性は、再び多くの人の召命となるべきです。それは、新しい世代に対して高齢者が示す、愛という代案です」3。これは「優しさ革命」へのわたしたちの貢献であり4、メインキャストとしてそれに加わるよう、わたしが皆さんに、愛する祖父母と高齢者に呼びかける、霊的で非武装の革命です。
世界は今、厳しい試練の時を迎えています。まずパンデミックという予期せぬ猛烈な嵐が吹き荒れ、次に地球規模で平和と発展を壊す戦争が起きています。前世紀に戦争を体験した世代がいなくなりつつある今、ヨーロッパで戦争が再び起きたことは偶然ではないでしょう。そしてこのような大きな危機によって、人類家族とわたしたちの共通の家を脅かす他の「伝染病」や他の蔓延する暴力が存在する事実に、鈍感になるおそれがあります。
このような状況の中で、わたしたちは根底から変わる必要があります。心の鎧を脱ぎ、他者は兄弟姉妹なのだと一人ひとりが気づけるようになる回心が必要なのです。そして、わたしたち祖父母や高齢者には大きな責任があります。自分の孫に注ぐ、理解ある優しいまなざしと同じまなざしで他者を見ることを、現代の人々に教える責務です。わたしたちは、隣人を気遣うことで人間性を磨いてきました。だから今日わたしたちは、弱い立場の人に優しさと思いやりを忘れない生き方を示す、師匠となっているはずです。わたしたちの姿勢は、弱さや服従と誤解されるかもしれませんが、地を受け継ぐのは柔和な人であって、攻撃的な人でも地位を悪用する人でもありません(マタイ5・5参照)。
わたしたちが実らせるべき果実の一つは、世界の面倒を見ることです。「わたしたちは皆、祖父母の膝に乗り腕に抱かれる時代を経てきたのです」5。今日こそ、おびえている多くの孫たちを膝の上で抱きしめる時です。まだ知り合うに至らない、そしてどうにか戦争から逃れることができたか、あるいは戦争で苦しんでいる孫たちを、物理的な支援によって、またひたすら祈ることで、膝の上に抱くべき時です。穏やかで面倒見のよい父である聖ヨセフのように、わたしたちも心の内で、ウクライナ、アフガニスタン、南スーダンの幼子たちの面倒を見ていきましょう。
わたしたちの多くは思慮と謙遜で磨かれた意識を身に着けていますが、それを世界は緊急に必要としています。わたしたちは一人では救われない、ともに食べるパンこそが幸福、そうした意識です。対立することで自己実現や成功が得られると思い込んでいる人たちに、それをあかししてください。だれもが、どんなに弱い立場の人でも、できることです。わたしたちが面倒を見てもらうということ自体が(世話する側の多くは外国から来た人たちです)、ともに生きることは可能であるばかりか必要なことだと表明する、一つの手段です。
親愛なる祖父母の皆さん、親愛なる高齢者の皆さん。今のこの世界においてわたしたちは、優しさ革命の担い手となるよう招かれています。わたしたちが手にしたもっとも尊い道具、わたしたちの年代にもっともふさわしい道具を、もっとたくさん、もっと上手に使うことを覚え、それを果たしていきましょう。その道具とは、祈りです。「わたしたちも祈りの詩人になりましょう。自分のことばを探す喜びをつかみ取りましょう。わたしたちに神のことばを教えてくれるものを取り戻しましょう」6。わたしたちの確信に満ちた祈りは、多くのことをもたらすはずです。苦しんでいる人々の痛みの叫びに重なるものとなり、人々の心を変える助けとなるはずです。わたしたちは、「美しい霊的な聖域が続く『合唱』を紡ぎます。そこでは、懇願の祈りと賛美の歌が、人生という場で懸命に働き、あがく社会を支えているのです」7。
そうしたわけで、祖父母と高齢者のための世界祈願日は、主によって——聖書にあるように——「長寿をまっとうした」人たちと祝宴を開きたいのだと、あらためて喜びをもって教会が告げる日なのです。さあ、皆でお祝いしましょう。皆さんの小教区や共同体でこの日を宣伝してください。そして孤独に苦しむ高齢者を、家でも施設でも彼らの暮らす場を、訪ねてください。だれもこの日を独りで過ごすことがないようにしましょう。待っていてくれる人がいることで、未来に何の楽しみもなくなった人の日々の向かう先が変わり、最初の出会いから新しい友情が生まれるかもしれません。一人暮らしの高齢者を訪問することは、現代におけるいつくしみのわざです。
優しさの聖母、マリアに願いましょう。わたしたち皆が優しさ革命の担い手となって、孤独の影と戦争の魔の手から、世を解放することができますように。
わたしが送る祝福が、皆さんを愛をもって心に留めているという約束とともに、皆さんと皆さんの大切な人たちに届きますように。ですから皆さんも、わたしのために祈ることをどうか忘れないでください。
2022年5月3日 聖フィリポ 聖ヤコブ使徒の祝日
ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
フランシスコ
ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り
神の母、わたしたちの母マリアよ、この苦難の時、あなたにより頼みます。母であるあなたは、わたしたちを愛し、わたしたちのことをご存じです。わたしたちが心に抱くことは、何一つあなたに隠されていません。いつくしみ深い母よ、わたしたちはあなたの優しい計らいと、平和をもたらすあなたの存在をたびたび経験してきました。あなたはいつも、わたしたちを平和の君であるイエスのもとに導いてくださるからです。
しかし、わたしたちは平和の道を見失いました。わたしたちは前の世紀の悲劇の教訓を忘れ、世界大戦の犠牲となった数えきれないほどの死者のことを忘れてしまいました。国際的な共同体として交わした約束を無視し、人々の平和への夢と若者たちの希望を裏切りました。わたしたちは欲望に取りつかれ、国益の中に閉じこもり、心は無関心によって渇き、利己主義によって麻痺してしまいました。神を無視し、偽りとともに生き、攻撃する心をかき立て、いのちを消し去り、武器を蓄えることを選び、隣人と共通の家を守るべき者であることを忘れてしまいました。戦争によって地球の庭を荒廃させ、わたしたちが兄弟姉妹として生きることを望まれる御父のみ心を、罪によって傷つけてしまいました。わたしたちは、自分以外のすべての人や物事に無関心になってしまいました。そして、恥ずかしながらこう叫びます。「主よ、おゆるしください!」
聖なる母よ、悲惨な罪の中で、疲れと弱さの中で、悪と戦争という理解しがたい不条理の中で、神はわたしたちを見捨てることなく、愛のまなざしを注ぎ続け、わたしたちをゆるし、再び立ち上がらせようと望んでおられることを、あなたは思い出させてくださいます。神はあなたをわたしたちにお与えになり、あなたの汚れなきみ心を教会と人類のよりどころとしてくださいました。神の恵みによって、あなたはわたしたちとともにいて、歴史の最も厳しい曲がり角においてもわたしたちを優しく導いてくださいます。
わたしたちはあなたにより頼み、あなたのみ心の扉をたたきます。あなたは、愛する子であるわたしたちをいつも見守り、回心へと招いてくださいます。この暗闇の時、わたしたちを救い、慰めに来てください。わたしたち一人ひとりに繰り返し語ってください。「あなたの母であるわたしが、ここにいないことがありましょうか」と。あなたは、わたしたちの心と時代のもつれを解くことがおできになります。わたしたちはあなたに信頼を寄せています。とくに試練の時、あなたはわたしたちの願いを軽んじることなく、助けに来てくださると確信しています。
ガリラヤのカナで、あなたはイエスの執り成しを促し、イエスの最初のしるしを世界にもたらしてくださいました。婚宴の祝いが悲しみに変わった時、あなたはイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2・3)と言われました。御母よ、神にそのことばをもう一度繰り返してください。今日、わたしたちに希望のぶどう酒はなくなり、喜びは消え去り、きょうだい愛は水を差されてしまったからです。わたしたちは人間性を見失い、平和を壊してしまいました。あらゆる暴力と破壊を可能にしてしまいました。わたしたちは、あなたの母なる助けを直ちに必要としています。
母マリアよ、わたしたちの願いを聞き入れてください。
海の星であるマリアよ、戦争の嵐の中でわたしたちを難破させないでください。
新しい契約の櫃であるマリアよ、和解への計画と歩みを奮い立たせてください。
「天の大地」1であるマリアよ、神の調和を世界にもたらしてください。
憎しみを消し、復讐をしずめ、ゆるしを教えてください。
わたしたちを戦争から解放し、核の脅威から世界を守ってください。
ロザリオの元后、祈り愛することが必要であることを呼び覚ましてください。
人類家族の元后、人々にきょうだい愛の道を示してください。
平和の元后、世界に平和をお与えください。
わたしたちの母よ、あなたの嘆きが、わたしたちの頑な心を動かしますように。あなたがわたしたちのために流した涙が、憎しみで涸れる谷に再び花を咲かせますように。武器の音が鳴りやまない中で、あなたの祈りがわたしたちを平和に向かわせますように。あなたの母なる手が、度重なる爆撃によって苦しみ、逃げまどう人々に優しく触れますように。あなたの母なる抱擁が、家と祖国を追われた人々に慰めを与えますように。あなたの苦しむみ心が、わたしたちのあわれみの心を動かし、扉を開き、傷つき見捨てられた人々のために尽くす者となりますように。
聖なる神の母よ、あなたが十字架の下におられたとき、イエスはあなたのそばにいる弟子を見て、「御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19・26)と言われました。こうしてイエスは、わたしたち一人ひとりをあなたにゆだねられました。そして、イエスは弟子に、すなわちわたしたち一人ひとりに、「見なさい。あなたの母です」(同19・27)と言われました。御母よ、わたしたちは今、あなたをわたしたちの人生と歴史の中にお迎えしたいと願っています。今この時、疲れ果て、動揺した人類は、あなたとともに十字架の下に立っています。そして、あなたに信頼し、あなたを通してキリストに自らを奉献したいと望んでいます。愛をもってあなたを崇敬するウクライナとロシアの民は、あなたにより頼んでいます。あなたのみ心は、彼らのために、そして戦争、飢餓、不正義、貧困によって殺されたすべての人のために鼓動しています。
神の母、わたしたちの母よ、あなたの汚れなきみ心に、わたしたち自身を、教会を、全人類を、とくにロシアとウクライナを厳かにゆだね、奉献いたします。わたしたちが信頼と愛を込めて唱えるこの祈りを聞き入れてください。戦争を終わらせ、世界に平和をもたらしてください。あなたのみ心からあふれ出た「はい」ということばは、歴史の扉を平和の君に開きました。あなたのみ心を通して、再び平和が訪れると信じています。あなたに全人類の未来と、人々の必要と期待、世界の苦悩と希望を奉献いたします。
あなたを通して、神のいつくしみが地上に注がれ、平和の穏やかな鼓動がわたしたちの 日常に再び響きますように。「はい」と答えたおとめよ、聖霊はあなたの上にくだりました。わたしたちの間に神の調和を再びもたらしてください。「ほとばしる希望の泉」であるマリアよ、渇いたわたしたちの心を潤してください。人類をイエスに織り込んだマリアよ、わたしたちを、交わりを作り出す者としてください。わたしたちの道を歩まれたマリアよ、平和の道へと導いてください。
アーメン。
ウクライナとロシアを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献する 教皇フランシスコと心をあわせて 日本カトリック司教協議会会長呼びかけ
(2022.3.23)
日本のカトリック信者の皆様
ウクライナとロシアを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献する
教皇フランシスコと心をあわせて
ロシアによるウクライナへの武力侵攻は、2月24日に発生してからまもなく一ヶ月になろうとしていますが、残念ながら戦争状態は継続しており、平和とはほど遠い現実が、毎日のように報道されています。
いのちが危機に直面しているこの状況を憂慮され、平和を求めるために様々に努力を続けておられる教皇フランシスコは、聖母の取り次ぎによる平和を求めて、来る3月25日(金)神のお告げの祭日のローマ時間午後5時(日本時間3月26日午前1時)に、聖ペトロ大聖堂において、ロシアとウクライナを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献されます。
なお3月25日は、1984年に教皇ヨハネパウロ2世がロシアを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献した日でもあります。
教皇様は、全世界の司教たちに、また司教を通じてすべての信者に、この奉献に一致して祈るようにと呼びかけ、できれば同じ時間に祈りを捧げるようにと招いておられます。
当日のために準備される祈りは、現時点ではまだ教皇庁から届いていませんが、届き次第、可能であれば翻訳を間に合わせ、ホームページなどでお知らせすることができればと思います。公式の祈りが間にあわない場合でも、教皇様の意向に心をあわせ、平和のためにロザリオの祈りなどをお捧げください。また教皇様の奉献との同時刻は日本では深夜ですので、祈りを捧げるのは翌朝でもかまいません。具体的には、それぞれの教区司教の定めるところに従ってお祈りください。
聖母の取り次ぎによって、神の平和がこの地上にもたらされ、特にウクライナの地に平和が確立されますように、また賜物であるいのちがその尊厳を守られますように、教皇様と心をあわせてともに祈りをささげましょう。
2022年3月23日
日本カトリック司教協議会 会長
カトリック東京大司教 菊地功
ウクライナの平和のために(司教協議会会長談話について)(2022.3.2)
~名古屋教区ホームページより~
松浦司教/お知らせ
教区の皆さま
一昨日(2月28日付け)、司教協議会会長の菊地功大司教から、ウクライナの平和のための談話が届きましたので皆さまに送ります。
司牧者の皆さまには直ちにメールでお知らせしましたが、談話の中には教皇フランシスコが先日の一般謁見で、灰の水曜日を「平和のための特別な断食と祈りの日」と定めたことが記されています。世界で一致して祈ることはすばらしいことですが、皆さまに伝える時間がなく、灰の水曜日にはとても間に合いませんでした。
そこで、名古屋教区としては、灰の水曜日から始まる四旬節(主の晩餐の夕べのミサの前まで)の間、教皇の意向に従って、ウクライナの平和のために祈りと断食(何らかの犠牲)を続けたいと思います。
会長談話をできるだけ多くに人に伝えて下さり、個人的に、また共同体として共にウクライナの平和のために祈りましょう。
平和を祈りながら
【なお、司教協議会会長談話の英語訳、教皇フランシスコのメッセージなどが、中央協議会のWebサイトに掲載 (こちらになります)
2022年「世界平和の日」教皇メッセージ(2022.1.1)
2022年1月1日教皇フランシスコの世界平和メッセージです。
「世代間対話、教育、就労――恒久的平和を築く道具として」
2022年1月1日
Link from below:カトリック中央協議会
2022年「世界平和の日」教皇メッセージ(2022.1.1) | カトリック中央協議会 (catholic.jp)
教皇、5月にロザリオの祈り呼びかける 「聖母月」にパンデミックの終息を願う
5月1日~31日までの聖母聖堂や巡礼所などと毎日の祈りの意向 リスト(英語のみ)
2021年4月26日
Link from below
https://www.cbcj.catholic.jp/2021/04/26/22426/
2021年「第29回世界病者の日」 教皇メッセージ
「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」
(マタイ23・8) 病者へのケアの基盤である信頼関係
2021年2月11日